昭和49年10月31日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 しっかり信心の帯をさせて頂くと、どう言う事になるかというと、例えばそれこそ泥棒じゃ、乞食じゃと言う様な、悪口を言われてもです。それに対して腹を立てたり、それの言い返し仕返しをしようと言う様な心は起こりません。ただ信心の帯がしっかり出来ていないと、泥棒と言われたから腹が立つ。俺がいつ泥棒したかと言うておる時には、まだ信心の帯がしっかり出来ていない時と、先ずは悟らにゃいけません。
 同時に信心の帯がしっかり出来ておりますと、本当に泥棒と言われりゃ、成程自分の心の中に泥棒が巣喰っておるなと。乞食だと言われりゃ成程私の根性は乞食の様な根性じゃなと分かってくるです。自分の中に泥棒が住んどる。乞食の様な根性がある。改めて気付かせて貰う。改めてそこに取り組んで信心の稽古が出来ると言う事にもなってくるのです。勿論久留米の石井さんじゃないですけれども、腹立てたら馬鹿らしかとこう言う。これは今の信心はそこから、ちょっと飛躍しておられます。
 けれどもとても腹を立てんというだけでも大した事ですよね。立てんじゃなくても、彼の場合は、計算がしてあるですちゃんと。普通の人ならば腹かくところを、自分は腹かかんで、シレシレしとるようなです。いうなら心の底にそれこそシレシレ笑うような気持ちがあるという事。もちろん助かっておる印ですけれども。そういう生き方になりゃおかげがあることを、絶対確信してるんです。だからういう間違いのない、おかげの頂けれるあり方でもあるのです。
 それがひどいことであれば、ひどい事であるほど、こげん言うたら腹かくじゃろ。こげん言うたっちゃ腹かかんかと言う様な時なら、時ほどそれをどっこいと、こう腹を立てずに受けるならば、喜びでは受けられんにしてもです。はぁ神様が、これだけ大きなおかげを下さろうとしておる事を、確信できると言う事は素晴らしいですね。だから腹立てちゃ馬鹿らしかという事になるのです。それは悔やんじゃ馬鹿らしか、悲観的な事を言うちゃ馬鹿らしか。いつも心の中は有難い。いつも心の中はニコニコ。
 これは体験しなければ、それは生まれてきませんでしょうけれども。喜代司さん辺りの場合なんかは、それをいつの場合も体験しておる。例えばひどいことが起こってくる、ひどい事を言われれば言われるほどです、おかげが大きいことを確信しておる。だから馬鹿らしかと言う事になる。また本当にです腹かくほど馬鹿らしいことはないです。おかげに必ず直結しておることですから、心の状態というものが。
 ですからお互い信心をさせて頂いて自分の心をです。いつも此方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰るのですから。腹立ちというのとそれの反対の事です。ここで人が顔に係る様な事を言うても、泥棒だと言うても乞食だと言うてもです。貰うてさるかなきゃ乞食じゃなし。人のもん盗らなきゃ泥棒じゃないと言う様に、慰め的な言葉を、ここでは使っておられますけれども。真実自分自身の心を、検討した上にも検討する、言うなら自分の心を顕微鏡で眺めるような心になってご覧なさい。
 必ず心の中に泥棒が巣喰っておるです。自分の心の中に乞食が宿っとるです。乞食根性があるです。そう言う所を気付かせて貰うて、改まっていくから限りなく美しくなれるのです。昨日私丁度お昼ごろ、久留米に用事がありましてちょっと参りました。恵美子さんの車で行きました。そしたらその用件も済みましたから、帰らせて頂こうと思うたら、今日は若先生が、花畑の大祭で行っとられますから、電話をかけてみてお祭りがすんどるなら、一緒に乗せて帰ろうというから、ほんなら電話掛けてご覧ち言うて電話掛けさせましたら、今済んだ所だとこう言う。
 それで直ぐ迎えに参りました。若先生が申します事は、愛子が入院しておる所が、もう直ぐそばだから、ちょっと行って見なさらんですかとこう言うんです。私の心もちょっと動きました。けれども神様から直ぐ心の中にお気付け頂いた事は、一分一厘の間違いのない働きの中にあっておる事だから、と言う事を頂くんです。だから一分一厘間違いのない働きというのはね。ただ良い事だぁけの事じゃないのですよ。例えば四十時間も苦しんだとか、子供は生きるか死ぬか分からん。
 自分自身もそうであったとかという、そういう破目に合うと言う事は、神様の一分一厘間違いのない働きなのです。それは良い意味じゃないです。苦しまなければならない元があるのです、彼女には。そういう意味なんです、一分一厘間違いがないというのは。いうならばです、大変な難儀を致しました。ですから今、一分一厘間違いのない働きをヒシヒシと心に感じらせて頂いて、詫びる所は詫びる。
 改まる所は改まっておる時ですから、親の私が行って、ただちょっと一時喜ばせる様な事は、却ってその邪魔になると言う事なんです。厳密に言うとそういう意味の事を頂いたから、いやもう寄るまいと言うて、直ぐ帰ってきました。皆さん本当に私はどうしてこげな難儀な思いをせんならんだろうかと。例えば言うてもですそれは神様の一分一厘間違いの無い働きのあっているのですよ。だから本当に素晴らしいタイミングの中に、例えばお産ならお産で言うならばです。
 本当にそれこそ産婆さんが間に合わんごと、安産のおかげを頂いたというのも、一分一厘間違いのない働きならです。愛子のように四十時間もかかって、しかも生きるか死ぬかと言う様な目にも合って、おかげを頂いたと言う事も、一分一厘間違いのない働きなんです。だから泥棒と言われても、乞食だと言われても、そういう辱めを受けなければならない元が必ずあるんです。というほどしに一分一厘間違いのないと言う事を知らなければいけませんです。信心しよるけん私は辛抱しとる。
 信心しよるけん、あげなこつ言われたばってん、腹立てんでこらえとるというだけではいけない事が分かります。一分一厘間違いのない働きが、お前は泥棒だ、お前は乞食のような奴だと言われるのです。ですからそういう時に、本気で信心の帯がしっかり出来ておるとです。そういう時に自分というものをギリギリより深く広く、自分を見極める事が出来る。そして成程あの人が言う様なものを、自分が盗ったわけでもなからにゃ、貰うてさるいた事もないけれども。
 自分の心の中にゃ貰うてさるく以上の乞食根性がある事を気付かせて貰い。成程法に触れるような泥棒でもした事もないけれども、またしようとも思わんけれども。よくよく自分の心の中を検討してみると、泥棒が巣喰っておると言う事実を、改めて分からせて貰う発見させて貰う。そしてこう言う事ではおかげにならんという改まりを、日々に重ねていくこと。いうなら一分一厘間違いのない働きが、泥棒と言われ乞食だと言われたのであると悟らなければいけません。
 だから腹の立てる段じゃありません。それこそお詫びやらお礼やらを申し上げなければならない。今愛子がです。十月十日例えば赤ちゃんをお腹の中に入れてから、此の方のことだけでもです。あそこもお粗末であったろうここも御無礼であったろう。これからは一期しませんからと言った様な、改まりができておる時ですから、親が行ってから喜ばせたりする様な事はその邪魔になる。
 その事を先日聞いて頂いた時に、一分一厘の間違いのない働きにあってが、一分一厘間違いのない働きがあっておるんだよと、私は婿の勝美さんにも申しました事ですけれども。それは有難い働きだという、お気付けを頂いておると言う事も、一分一厘の間違いのない働きだと言う事なんです。だから今自分が苦労を感ずるなら、難儀を感ずるならです。決して、無為に神様が難儀を与えてあるはずはありません。難儀を負わなければならない元は自分に必ずあるです。
 だからそこが改まれていくと言う事は、最後の所のしっかり信心の帯をせよと言う所が出来ておらんと出来んのです。本当に自分はそれこそ人を苦しめた事もない。人に親切ばっかり施してきた。それなのにどうしてこんな、難儀な事になってくるだろうか。それこそが私は思い上がりだと思います。人間の思い上がりです。信心の教えを基にしてです。自分自身の心を自分自身一家の事を思うて見るとです。成程そういうめぐりを作っておった。そういう苦しみを受けなければならない元は人ではない。
 自分自身にある事を気付かせて貰うて、それこそ今のその苦しみがです。そのめぐりのお取り祓い、その難儀の元のお取り祓いを頂いておると思うて、お礼を申し上げる心が生まれてくる。これも信心の帯がしっかり出来ておると、そういう心の状態になりますけれども、信心の帯がしっかり出来ておらんと、私だけがどうしてこげん貧乏くじを引かんならんだろうかといったような事になる。それは人間の思い上がりです。成程お詫びに徹するとか、お礼に徹するとかと信心は言われますがです。
 本当に自分というものを見極めていけばいくほど、お詫びをしなければならない。そこから謙虚な自分が新たに頂けてくる。今まで気がつかなかった事に、お礼を申させて頂いておるから、そこから喜びの生活。いうなら信心の喜びを、より深く分からせて頂く事が出来る。その上に立っての願いでなからなければならない。今日は皆さんどんな事を言われても、されても腹を立てるな。それだけでもです大した事です。
 腹立てたら馬鹿らしかという、矢張りその思い込みを作ってです。どんな事言われたっちゃ腹立てちゃ馬鹿らしかという気にならにゃいかんです。腹を立てたらおかげにです、おかげを頂きよったっちゃまた、おかげが傍まで来てから、また向こうさん跳ね返って行くですよ腹立てたら。というほどにおかげに密接な関係を持っとるのが人間の腹立ちです。だから腹かいちゃ馬鹿らしか。
 けれどもそれだけではただおかげを頂いていくだけですから、御徳を頂く力を頂くと言う事になってくると、ギリギリ自分というものを見極めさせて頂いて、悪口を言われれば言われたで、難儀を感ずるなら感ずるでです。その難儀を感ずる元が自分にあったことを、自分の心の中に発見して、改まっていかにゃいけません。そこから、私は力が頂けると思うです。信心の帯をしっかりとしてまいりますとです。
 そういう深い所に根ざした信心。お徳を頂いていけれる信心。ただ乞食だ泥棒だと言われて腹を立てんというだけは、おかげに繋がるだけ。けれども本当に言われれば言われるほど、そうだなと悟らせて貰うて。やれいたや今みかげをと。本当に恥ずかしい事だ苦しい事だ。けれども今こそ神様お取り払いを頂いておるんですと。例えば愛子じゃないけれども、四十時間ものお産がかかった時にです。今あのお詫びの印が叶うておると言う事に気付くような、おかげを頂いたらその事がです。
 今度は却って誰よりもお徳を受ける事になりましょう。めぐりが大きければ大きいほど、おかげもお徳も大きいと仰るんですから。どちらにしてもおかげです。倒れても転んでも矢張りおかげです。痛い思いをするのですけれども、起き上がる時には何をかつかんで起き上がらせてもらうのですから、矢張りおかげはおかげですけれども。それが信心の帯をしっかりしておる時でないとそれが出来ません。
   どうぞ。